Sunday, April 24, 2011

東日本大震災、そしてマリンバ・デイズ (誉田君 その3)

東日本大震災で犠牲になられた方のご冥福をお祈り申し上げますとともに、遺族の方々には謹んで哀悼の意を捧げます。そして、被災された方には心からお見舞い申し上げます。

3月11日の地震の際、僕は秋田市に居ました。3月13日にコンサートを控え、そのリハーサルが始まった直後の事でした。揺れの大きさも、揺れの時間の長さも、僕が今まで感じた中で一番大きなものでした。地震直後に携帯からラジオを流し、今回の地震の震源地が宮城県沖とのことが分かり、仙台から今回の演奏会のために秋田に入られていた方々は家族、そして仲間の無事を祈るように聴きいられていました。僕も、家族はもちろん、誉田君そして宮城県に住んでいる友人の無事をとにかく強く祈っていました。

地震から1日半後、ようやく電気が通り、つけたテレビを観て言葉を失いました。。。地震の被害はもちろん、津波の被害、そしてさらには原子力発電所の状況を映像で観ていくうちに家族のことがたまらなく心配になり、自分がドイツに行くことの意義、音楽家として生きることの意味が分からなくなりそうでした。ドイツへの出発を数日後に控えていたのですが、それを断念しようかとも考えていたほどでした。

僕の家族はもちろん、沢山の方々から温かいお言葉を頂き、そしてお力を借りて何とかドイツには戻ってきたものの、自分の心が不安定になってしまったようで、4月8日から10日に控えていたマリンバの小さなフェスティバル「マリンバ・デイズ」も「心ここにあらず・・・」の状態で、準備を進めていました。

そんな中、今回のマリンバ・デイズのゲストとして招へいしていた誉田君がドイツにやってきました。

彼は宮城県多賀城市出身。彼の街では石油コンビナートが燃え、津波の被害もあった事はニュースでも観ていましたが、僕と、そして彼を駅まで車で迎えに行ってくれたデトモルトの生徒ユキ君と、誉田君から聞く被害の実態の話に言葉を何度も失いました。

被害がそんなに大きくもない秋田にいたというのに、僕はニュースだけを観て心が不安定になっていたのですが、被災者としてドイツに来るまでの約20日間被災地で生活していた彼の心のうちはもっともっと辛く、重いものだったに違いないはず、と話を聞きながら感じていました。

しかし・・・翌日のリハーサルで聴いた彼の音は僕のものとは全く違い、地震で感じていたはずの恐怖や不安は一切音から出ていないのはもちろん、もっともっと芯のしっかりした、そして音楽を奏でることに意義を見出しそれを素直に喜んでいる、まさに音楽家の音でした。そんな彼の音を3時間を聴きながら、自分を恥じ、そしてリハーサルの後半は誉田君のその音にのせられ、音楽をすることの喜び、そして意義を見出せた、音楽家として充実した時を過ごしました。

その彼との音はリハーサルの2日目も、3日目も変わることなく、誉田君の力を借りて自分もやっと音楽を創る心を持つことが出来、音楽の持つ様々な表現の可能性を時間の許す限り2人で追求し、マリンバ・デイズの初日である僕たちの演奏会を無事に迎えました。本番の演奏は、僕は沢山反省するところはありましたが、信頼関係があるからこそ出来る、音を操る演奏が出来たと思うし、何より楽しかったなあ・・・

誉田君には、その演奏会の翌日、デトモルト音楽院の生徒のためにマレットの巻き直しのクラスも開いてもらいました。彼の持っている特別なコミュニケーション能力と言っていいのでしょうか、みんなもすぐに誉田君に打ち解け、そのクラスも盛況に終えられました。

そしてマリンバ・デイズ最終日は生徒の演奏会。これは涙ものでした。みんなそれぞれに色々な事を感じ、考えながらこの日のために準備をしてきたことが演奏を通して強く感じられたし、みんな個性豊かに、いい演奏を聴かせてくれました。それぞれが一人の音楽家でありながら、おこがましくも先生として指導させてもらった立場上、みんながどれだけ素晴らしかったか、ここで書くのは控えさせて頂きますが、でも今回の演奏を自信に変え、本番の演奏で見えた課題もそれぞれで消化し、そしてまた一つ強くなっていってもらえたら嬉しいなあ、とそんな風に思った演奏会でした。。。

誉田君には、新しくドイツで生活し始めた僕の背中を力強く押してもらいました。そしてマリンバ・デイズの成功には、彼の力も多大に影響しました。デトモルト音楽院の打楽器科一同の臨時の代表としてこの場を借りてお礼を申し上げたいと思います。「ありがとうございました。」

そして最後になりますが、被災地の皆様には、一日でも早く心に和平を感じられる日々が来ますことを、強く強く願いますとともに、微力ではありますが、僕も出来る限りの力で、そのために自分の出来ることを精一杯努力させて頂く所存でございます。



(何だか取り留めのない日記になってしまいましたが、小学一年生の時に僕が書いた作文「スキーに行って、それから寿司屋に行ったこと」に、一つ丸しかつけてもらえなく、そこに赤ペンで添えられていた先生のコメント「作文の内容の目玉は、一つでいいと思います。」を思い出します。)